三股の歴史(1)

 1.原始・古代

縄文時代 

  本町では、縄文時代の人々の活動が確認できる遺物(土器や石器)が採集されています。その代表的な遺跡が長原(ながはる)遺跡(通称:長原の丘)で、本格的な発掘調査は実施されていませんが、縄文土器の破片が採集されています。

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長原遺跡の土器片

  『三股町史』(以下、『町史』)の上巻(61ページ)によれば、土器片は縄文時代後期前葉から中葉にかけてのものです。また、長原遺跡の立地条件を下記のように提示し、集落が形成されていた可能性を示唆しています。

「長原遺跡は、鰐塚山地のふところに抱かれたような、三方を山に囲まれたテラス状の安定した台地上に立地しており、その台地の北側を沖水川の上流が、南側を内之木場川が流れており、周囲には山の幸や川の幸などが豊富で狩猟採集環境に恵まれていたと推察される。この場所に拠点的な集落跡が形成されていた可能性は高いだろう。」

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長原遺跡遠景

  本町では、旧石器時代の遺跡は確認されていません。ただ、都城盆地では旧石器時代の遺跡が確認されていますので、本町においても今後の発掘調査によって発見される可能性はあるでしょう。

弥生時代

  平成8年(1996)3月に発行された『三股町遺跡詳細分布調査報告書』によれば、町内では弥生時代の遺跡が最も多く確認されています。分布調査とは地表面を観察し、土器や石器などの考古資料を採集し、遺跡のおよその時期や範囲を推定するもので、実際に発掘調査を行うものではありません。

  弥生時代の大まかな定義は、弥生土器の使用開始、稲作の開始、金属器(鉄器・青銅器等)の使用開始などにまとめられます。ただし、稲作の開始時期は年々繰り上げられており、縄文時代と弥生時代の年代の区分は決定していません。地域差もあるでしょう。

  町内では、弥生時代の遺跡の本格的な発掘調査事例はありませんが、古墳時代の遺跡の性格を持った諏訪廻第1遺跡で弥生土器が出土しています。

古墳時代

  古墳時代は、前方後円墳や円墳、方墳などの大小の古墳が築造された時期をさします。おおまかな区分としては、前期(3世紀中頃~4世紀)、中期(5世紀)、後期(6世紀)にわけられ、7世紀は終末期と位置づけられ、次の時代へと転換していきます。現時点で、町内では古墳は確認されておらず、九州東南部特有の地下式横穴墓も確認されていません。

  平成11年(1999)には、町営墓地公園建設事業に伴い、部分的な確認調査が実施されました。それが諏訪廻(すわまわり)第1遺跡の確認調査で、大型の溝状遺構が発見されました。

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諏訪廻第1遺跡の溝状遺構

  溝状遺構は、幅約2.6メートル、深さ0.9メートルで、東西方向に約150メートルほど延び、溝の中からは弥生時代終末から古墳時代前期にかけての甕形土器や壺形土器が出土しました。溝は、防御用の堀というより集落を区画する意図が認められるものでした。

  また、平成16年(2004)に発掘調査された梶山地区の中原遺跡では、古墳時代の中期から後期にかけての集落跡が発見されました。竪穴住居跡15基、数多くの土坑、3本の溝状遺構などが検出され、竪穴住居跡からは、甕形、壺形、高坏形などの土師器がまとまって出土しました。

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中原遺跡の竪穴住居跡

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中原遺跡の竪穴住居跡の出土土器

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竪穴住居跡の柱穴から出土した小型丸底壺

  本町の縄文~古墳時代については発掘調査の事例が少なく、検証が不十分な時代となっています。

奈良・平安時代

  教科書等の時代区分の流れとしては、古墳時代から飛鳥時代を経て、奈良・平安時代へと移りますが、これらの時代も三股のことは不明というのが実情です。『町史』では、奈良時代に成立した『古事記』や『日本書紀』の日向神話を紹介し、南九州に関わる神話や伝承に触れていますが、三股に関する記述は見られません。

  昭和60年(1985)に発行された『三股町史 改訂版』(20ページ)には、唐突に三股連(むらじ)が登場し、諸県君の息子である大夷持命が三股連の祖であるとしています。この記述は、昭和3年(1928)発行の『三股史』からの引き写しで、出典も不明です。連姓は、天武天皇の八色の姓の改革によって主に地方豪族に付けられた姓です。三股連(恐らく、三連)の考察は、今後の課題です。

  奈良時代は、律令制の確立によって中央集権化が進み、中央からの指令を地方に伝達し、地方の情勢を中央に伝達するために官道が整備されていきます。官道沿いには30里(約16㎞)ごとに宿泊施設を備えた駅が設置されました。

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  この図は、日向国内(ほぼ宮崎県域)の駅・駅路推定図(『町史』上巻 131ページ)です。これは、『延喜式』巻28の兵部省関連の中から諸国駅伝馬条に記載されている日向国内の駅を推定して当てはめたものです。ここで、三股の地名につながる「水俣(みなまた)」が登場します。水俣駅の場所は現在のところ特定されていません。ただ、島津駅の所在地は現在の都城市郡元町付近が有力視されていますので、距離的に水俣駅は都城市山之口町付近である可能性が指摘されています。今後は、発掘調査事例の増加を待って考察していくことになります。

○島津荘の成立と三俣院
  平安時代中期の後半にあたる万寿年間(1024~1028)に、大宰府の大監の地位にあった平季基(たいらのすえもと)が日向国諸県郡の島津一帯の地域を関白藤原頼通(よりみち)に寄進して、島津荘(しまづのしょう)が成立しました。その後、島津荘は拡大し、12世紀後半には日向・大隅・薩摩の三ヶ国に広がる大荘園へと発展しました。

  鎌倉時代の史料に、建久8年(1197)作成の図田帳があり、そこに日向国諸県郡の一円荘として、北郷300町、中郷180町、南中郷200町、救仁(くに)郷160町、財部郷150町、三俣院700町、島津院300町、吉田荘30町とあり、三俣の地名が登場します。平季基が寄進した島津荘は、前記の島津駅を中心とした地帯であったことが指摘されていますので、三俣院も水俣駅に関連している可能性があります。三俣院の範囲は、三股町の北部、都城市山之口町、同市高城町とされていますが、名称の変遷(水俣→三俣)も含めて考察が必要です。

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  この図は、日向・大隅国の島津荘概略図(『島津と北郷の時代』所収、平成26年、都城島津邸発行)で、同様の図は『町史』上巻(196ページ)にも掲載されています。

  平季基が立荘した島津荘の経営はその後、平季基の娘婿となる地元有力者の伴兼貞(とものかねさだ)やその一族に委ねられ、三俣院については息子の一人である伴兼任が深く関わっていきます。伴兼任は、都城・三股地域に流れる萩原川の名を取り「萩原氏」を名乗ったとされ、のちに三俣院の弁済使職(荘園の役人)を世襲していきます。

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萩原川下流から萩原地区一帯を望む

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