三股町指定文化財
1.都城島津三代北郷久秀・弟忠通の墓
・種別:史跡
・所在地:三股町大字長田字中原 梶山地区
・指定年月日:平成元年(1989)11月3日
概略
・お墓について
お墓は五輪塔と呼ばれる石塔の一種で、右側が都城島津家3代目当主の北郷久秀、左側がその弟忠通のもので、高さは2基ともに約130㎝です。遺骨が納められているわけではなく、供養塔です。凝灰岩で造られており、町内に現存する五輪塔の中では良好な保存状態にあります。造立年代は不明です。
・大昌寺について
大昌寺(山号は四徳山)は、北郷久秀・忠通兄弟の菩提を弔うために、2人の父親である2代目の北郷義久が建立した寺院です。宗派は臨済宗で、元々の寺院名は霊照山薦福寺といいました。現地には久秀の法名である「薦福寺殿日山妙旦大禅定門」と刻まれた四角石柱が残っています。薦福寺は都城市都島町に移され(のちの龍泉寺)、梶山にはその末寺として大昌寺が建立されたようです。所在地は梶山小学校の北側にある梶山城跡(杉山)の南西麓で、『日向地誌』によれば慶応3年(1867)の段階で廃寺になりました。
・梶山合戦
『山田聖栄自記』(文明年間、15世紀後半成立)などの後世に作成された史料によると、北郷久秀・忠通兄弟は、応永元年(1394)に起こった梶山城での合戦(梶山合戦)で戦死したと伝えられています。北郷兄弟が亡くなる2年前の明徳3年(1392)には南北朝の合一が成立しましたが、南九州では争乱の火種がくすぶり続けました。その一つが梶山合戦でした。忠通は応永元年2月17日に討ち死にし、久秀も同年3月7日に重傷を負い、石に腰掛けたまま絶命しました。当地には腰掛石(下写真)が伝わっています。
2.樺山どんの墓
・種別:史跡
・所在地:三股町大字樺山字蔵元 中米満地区
・指定年月日:平成元年(1989)11月3日
概略
樺山どんとは、樺山家初代樺山資久と伝えられています。樺山資久は、島津宗家4代島津忠宗の五男で、三股町樺山の地名を取り、名字を島津から樺山に改称したとされています。樺山を統治する上で館を構えたのが樺山城 (現在上米公園)と伝えられていますが、明確な史料は見つかっていません。樺山どんの墓は五輪塔のうち、地輪と水輪が残っているだけで、決して保存状態が良好とはいえません。しかし、三股町樺山のパイオニアとも言うべき重要人物のお墓という点で、三股町にとって貴重な文化財であるといえます。ちなみに、都城島津家初代北郷資忠は樺山資久の一つ下の弟です。男子に恵まれなかった資久は、弟資忠の次男音久を養子にむかえ、家督を継がせました。
3.蓼池かくれ念仏洞
・種別:史跡
・所在地:三股町大字蓼池字北畑 国道269号線沿い
・指定年月日:平成元年(1989)11月3日
概略
鹿児島藩は、江戸時代をとおして浄土真宗(一向宗)の信仰を禁止していました。禁止していた理由には諸説があり、定かではありませんが、藩が何度も取り締まりや弾圧を行っていたことから、浄土真宗は藩内に広く浸透していたことがうかがえます。信者は地域を越えて「講」を組織し、信仰を続けました。ひそかに信仰を守るための形態の一つが洞穴(ガマ)の中での活動(法座など)でした。蓼池地区のガマは、国道が通る前は竹林であったらしく、見つかりにくい場所だったそうです。このガマは、指定の時は高さ90㎝、奥行3m40㎝、横幅1m90㎝でした。なお、本町では蓼池地区のほかに小鷺巣地区にも念仏洞があったそうです(未確認)。
4.日州梶山番所跡
・種別:史跡
・所在地:三股町大字長田字諏訪原 梶山地区
・指定年月日:平成2年(1990)4月1日
概略
江戸時代において、鹿児島藩は北の陸地・山地側は陸地番所を設置し、東・西・南の海側は津口番所・遠見番所などを設置し、すべての方位の藩境を監視していました。陸地番所(9ヶ所)については『庄内地理志』巻53を見ますと、
改御番所
御領国諸所他国通路改御番所
薩州出水野間之原 薩州大口小河内
日州加久藤榎田村 日州野尻紙屋村
日州高岡去川村 日州都城梶山
日州都城寺柱村 日州志布志八郎ケ野
日州志布志夏井村 以上九ケ所陸地番所
とあります。都城の東部は飫肥藩(藩主:伊東氏、領域:日南市及び宮崎市南部一帯)と接していたことから、三股地域には2ヶ所の番所が設置されたと思われます。鹿児島藩がいかに飫肥藩を警戒していたかがわかります。梶山・長田地区の番所及び辺路番所の設置目的は、鹿児島藩から飫肥藩に通じる板谷往還の藩境警備・監視であり、人々や物資の流通に対して厳重な取り締まりが行われました。当初は、番所の統括は鹿児島藩直轄でしたが、元文元年(1736)8月以降は都城島津家に一部委任され、都城島津19代久龍の時から私領・藩直轄領を含む全藩境の約2分の1を直接指揮・監督するという重責を担いました。
5.日州寺柱番所跡
・種別:史跡
・所在地:三股町大字宮村字尾崎 寺柱地区
・指定年月日:平成2年(1990)4月1日
概略
寺柱番所跡は、宮村小学校から東へ500m程の場所にあります。寺柱番所は都城来住口を東に向かう寺柱街道の終点にあり、梶山番所と同様に飫肥藩への藩境警備が主な任務でした。
『庄内地理志』巻55 寺柱番所絵図
都城市教育委員会所蔵・提供(平成19年6月15日掲載許可)
この絵図は、都城の百科全書とも言うべき貴重な史料『庄内地理志』の巻55に掲載されているものです。『庄内地理志』全113巻(103巻が現存)は、江戸時代に都城島津家が独自に編纂したもので、当時都城島津家領であった寺柱・梶山のことも詳細に書かれています。絵図について若干の補足を加えますと、右(西)からの道が宮村小学校前から続く道路で、中央の番所の門をくぐり左上へ抜けていく道(大道と書き込んであります)が飫肥(日南市)へと続く道です。この道(大道)は、前掲写真で左端に見える道路に該当します。現在は人家が建っていますので、通り抜けできません。
○三股町指定文化財位置図
~Googleマップにリンクさせています。ご参照ください。
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