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2.中世城館

  (1)梶山城跡
梶山城跡
梶山城跡を南側上空から撮影
梶山城跡縄張り図
梶山城縄張り図

 

  梶山城跡について簡単な説明資料を作成しました。内容は、上段空撮の写真や縄張り図に関する説明と、都城島津家伝来史料の中から梶山城の古絵図2点、『庄内地理志』に見られる梶山城の姿を紹介しています。
 

梶山城跡説明資料(PDF文書:860KB)




  (2)勝岡城跡
勝岡城跡
勝岡城跡北側入口
勝岡城略図(『三股町史 改訂版』より)

  

  勝岡城跡について簡単な説明資料を作成しました。勝岡城については、絵図や縄張り図はなく、上掲の『三股町史 改訂版』掲載の略図しかありません。研究が進んでいないのが現状です。

勝岡城跡説明資料(PDF文書:641KB)

 



  (3)樺山城跡
樺山城跡遠景(現在上米公園)
樺山城跡
樺山城跡記念碑

 

  樺山城跡について簡単な説明資料を作成しました。樺山城は現在、春に桜まつりでにぎわう上米公園となっています。樺山城が若干の遺構を残している点は下記の説明資料の中で触れています。樺山城は本ホームページの「1.三股町指定文化財」の中の(2)樺山どんの墓とも関連します。

樺山城跡説明資料(PDF:561KB)

  <参考リンク>
  ● 上米公園夜桜まつり( 三股町ホームページ内リンク )


  ちなみに…
  樺山城の初出史料は、「三股町の中世城館及び都城12外城」の中で触れていますが、城館としての「都城」についても若干触れてみます。
  三股町近隣の都城市(旧都城市:高城町・山之口町・山田町)の市町名は城館名と深いかかわりがありますが、残念ながら、三股町に「三股城」あるいは「三俣城」はありません。「三俣城」は高城町や山之口町にありました。中世の三俣院の領域に三股町の北部が含まれていたと考えられていますが、三股町名の「俣→股」の変化については現在調査中です。

  さて、「都城」の初出史料ですが、ある人物の手紙に「ミやこのしやう」と出てくるのが初見とされています。その手紙を書いた人物こそが樺山資久なのです。資久については、三股町指定文化財の「樺山どんの墓」で若干紹介していますが、まだまだ謎の多い人物です。
  手紙の書かれた時期は、中世文書によく見られる年欠の文書ですが、永和2年(1376)に比定されているようです。この頃、資久は小山城(都城市高城町桜木)に在陣中で、今川満範軍と対峙していました。今川満範は、この時九州探題であった今川了俊の息子で、島津氏攻略のために南九州に派遣されてきました。高城に布陣してからの満範は「三俣大将」と呼ばれ、島津氏との対決姿勢を強めていきます。
 

小山城跡 小山城から見える高城
樺山どんこと樺山資久が在陣していた小山城跡。 小山城から見える高城(中央の白い模擬天守:高城郷土資料館)。非常に距離が近く、まさに最前線といった感じです。


<資久の手紙の内容>
  小山城に在陣し今川軍と対峙していた資久に対して、「実は資久は今川方に通じているのではないか」と讒言する者がいたようです。これに対し資久は、都城に籠城していた養子音久に志布志城(現在、国指定史跡)にいる島津氏6代目氏久(奥州家)に弁明してもらうよう依頼を行いました。その弁明依頼と戦況報告が手紙の内容のようです。この手紙の中で「ミやこのしやう」と出てくるのですが、現在使われているような広い地域を含む「都城」ではなく、お城としての「都城」という名称使用が確認されたわけです。さらに、「ミやこのしやう」から考えて「みやこのじょう」と発音していたことも確認できます。三股町に関しても、このような一次史料(その時代に書かれた文書)から歴史解明を進めていく必要があります。
※手紙は「年欠4月25日付明見(樺山資久)書状」として現存するもので、東京大学史料編纂所に所蔵されています。翻刻文は『都城市史 史料編 古代・中世』(P.229)に掲載されています。

  しかし、上掲写真のように最前線で九州探題軍と対峙していながら讒言を受けるとは気の毒という他はないのですが、可能性としては、今川方の謀略(離間の計とでも言いましょうか)が感じられなくもありません。今川方にとって、都城盆地の実力者である樺山一族を味方に付けておきたいというのは、南九州を攻略する上で重要な戦略であったでしょう。また、南北朝時代は、一族内でさえ南朝方・北朝方に分裂して抗争するという事態が全国各地で展開されていましたから、樺山氏にとって本宗家島津氏を離れて北朝に転ずる道がなかったわけではありませんでした。しかし、結局のところ、資久が今川方に付くことはなく、永和2年(1376)の9月には小山城は攻め落とされ、資久は樺山城へと撤退した模様です。
  資久が小山城から樺山城へ撤退したかについては、地理的条件から考えると若干の疑問が残ります。ただ、これ以降の資久の足取りは追えなくなります。

  その後、樺山家の当主として表舞台に登場してくるのは2代目の音久となります。実兄の北郷義久(誼久)とともに都城に籠城して今川軍と対峙し、応永元年(1394)に至って遂に野々三谷城に入城します。樺山氏は、大永元年(1521)まで野々三谷城を拠点とし、都城盆地北部から宮崎平野南部にかけて広大な版図を支配下に置くのでした。
 

〔参考文献:『都城市史 通史編 中世・近世』 平成17年都城市発行〕

 



  (4)北殿城跡
北殿城跡
北殿城跡を北西から撮影
 「北殿城跡・地頭屋敷絵図」(『庄内地理志』巻99)
 都城市教育委員会所蔵・提供(平成19年6月15日掲載許可)

 

  北殿城跡について簡単な説明資料を作成しました。北殿城は、『庄内地理志』巻99で伝わる以上のことは不明な点が多く、山城というより居館に近い規模のものです。地元で伝承されてきた城跡のようで、『庄内地理志』の編者は「北殿=島津久照」という推測を立てています。詳しくは説明資料をご覧ください。
 

北殿城跡説明資料(PDF:470KB)




 三股町の中世城館と「都城十二外城」

  三股町の中世城館は、上記で紹介したとおり4箇所確認されています。もちろん、元和元年(1615)に江戸幕府より出された一国一城令ですべて廃城となっています。さらに、山城ですので、現地に建造物等は一切なく遠目にはただの山にしか見えません。もちろん、現地を踏査すれば山城特有の遺構を確認できるのですが、すべての山城が一部破壊を受けており、整備も進んでいないのが現状です。



  三股町の中世城館や都城12外城について一覧表を作成しました。また、都城盆地の中世城館について簡単な略地図を都城歴史資料館作成の地図を基に加工したものを掲載しております。

三股町の中世城館一覧及び都城十二外城説明資料(PDF:331KB)


  ※「7.都城北諸文化情報誌」-『おてんじょだけ』第2号(PDF:971KB)で中世城館を取り上げています。合わせてご覧ください。
 

     <中世城館参考リンク>
 
     「都城島津と歴史博物館」のホームページより
  都城跡(都城市)   志和池城跡(都城市)
  安永城跡(都城市)   森田御陣跡(都城市)
  月山日和城跡(都城市高城町)   松尾城跡(都城市山之口町)    
  山田城跡(都城市山田町)   薩摩迫(都城市山田町)


        
     「都城市役所 教育委員会 文化財課」ホームページより
 
  都城跡(都城市)   志和池城跡(都城市)
  安永城跡(都城市)   森田御陣跡(都城市)
  野々美谷城跡(都城市)   梅北城跡(都城市)
  六ヶ城跡(都城市)   山田城跡(都城市山田町)
  月山日和城跡(都城市高城町)  
 
 
     ○宮崎県内国指定史跡の中世城館(3件)
        都於郡城跡(西都市役所HP:文化財:史跡→14)
        穆佐城跡(宮崎市役所HP:文化財:国指定史跡→12)
        佐土原城跡(宮崎市役所HP:文化財:国指定史跡→10)
  



 
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