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男性 11,724
女性 13,592
合計 25,316
世帯数 10,004世帯

【平成28年 5月1日現在】

※現住人口・世帯数を掲載

人口統計について

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歴史と文化財
文化財

文化財と文化財保護法
 
  文化財とは?

  文化財という言葉は幅広く使われていますし、法律でもその定義は細分化されていますので、一言で言い表せるものではありません。ただ、あらゆる地域で、長い歴史とともに受け継がれた貴重な財産(文化的遺産)が「文化財」であることは間違いないでしょう。

  その貴重な財産を守るために、昭和25年5月30日に文化財保護法が制定されました。三股町においても、文化財保護法の規定に基づき、昭和46年3月23日に三股町文化財保護条例が制定されました。

  文化財保護法は、文化財の保存・活用を目的に制定された法律ですので、その保護すべき文化財を具体的に示す必要があります。つまり、冒頭のように「文化財とは何か?」と問われれば、文化財保護法の中にその答えが用意されていなければなりません。その答えは、第2条の「文化財の定義」に掲げられています。
   

       ・ 詳しく知りたい方は、文化庁ホームページへのリンクを設定しました。
               文化庁(http://www.bunka.go.jp/)

      ・ 文化庁ホームページの中で「文化財の定義」についての参考資料。
              文化財に関するパンフレット⇒「未来に伝えよう文化財」(PDF文書)

      ・ 法律及び条例
              文化財保護法        三股町文化財保護条例


※ 文化庁のホームページは様々な情報を発信しています。ここでは、あくまで「文化財の定義」という限定したテーマについての情報提供にとどめました。



保存と活用 
 
  重要なことは、文化財保護法で分類された多種多様な文化財をどのように保存・活用していくかということです。その目的達成のために整備されたのが、指定・選定・登録という制度です。では、その指定・選定・登録された文化財をどのように活用していけばよいのでしょうか?

  現在は、まちおこしや地域活性、観光資源に活用されていると言えるでしょうが、あくまでも「大切に保存して後世に伝える」という大前提を忘れてはなりません。経済効果に特化した整備は行うべきではなく、保存と活用のバランスを常に考慮した整備こそ文化財には必要と言えるのではないでしょうか。


 

お問い合わせ先
教育課 生涯学習係
電話 0986-52-9311


1.三股町指定文化財


  (1)都城島津三代北郷久秀・弟忠通の墓


 北郷久秀・忠通兄弟の墓
 

 種  別   史跡
 形  式   五輪塔  久秀墓の高さ:130㎝  忠通墓の高さ:132㎝
 所 在 地   大字長田字中原 大昌寺跡
 指定年月日   平成元年(1989)11月3日


< 概 略 >   
  これは、五輪塔()と呼ばれる石塔()の一種で、右側が北郷久秀、左側が弟忠通のお墓です。遺骨()が納められているわけではなく、供養塔()す。凝灰岩()で造られており、町内に現存する五輪塔の中では良好な状態にあります。造立()年代は不明です。大昌寺は、北郷久秀・忠通兄弟の菩提寺()で、梶山小学校の北側にある梶山()()跡(杉山)の南西()に所在しましたが、明治時代初めの廃仏()毀釈()により廃寺()となりました。 
  では、都城島津家(北郷家)三代目当主のお墓が三股町にあるのはなぜでしょうか?
  それは、応永()元年(1394)に起こった梶山城での合戦(梶山合戦)に起因()します。
  北郷兄弟が亡くなる2年前の明徳()3年(1392)に南北朝の合一()は成りましたが、南九州では争乱の火種がくすぶり続けました。南朝に属していた島津家と北朝(九州探題)との抗争は継続しており、その一つが梶山合戦でした。忠通は応永元年の2月17日に討ち死にし、久秀も同年3月7日に重傷()()い、石に腰掛けたまま絶命()しました(当地に腰掛石()が伝わっています。写真はこちら)。
  梶山城で戦死した兄弟の菩提を()うために、父義久()(二代目当主)が大昌寺を建立()し、歴代()住職()に守られた結果、2人のお墓は現代に伝わっているのです。
 

  <参考リンク>
  ● 宮崎県内最古の石造五輪塔(宮崎市役所HP:文化財:市指定史跡)
            ~上から3番目(89.小村薬師堂石塔群)の翁丸塔(写真)。

  ● 『餓鬼草子』の五輪塔東京国立博物館HP:名品ギャラリー:館蔵品)
            ~五輪塔(画像内左下)が描かれている画像にリンクさせています。
               石造五輪塔のことを調べていると、必ず出てくる『餓鬼草子』。
               東京国立博物館・京都国立博物館に収蔵、いずれも国宝です。

                  


 
  (2)樺山どんの墓


樺山どんの墓
 

 種  別   史跡
 形  式   五輪塔
 所 在 地   大字樺山字蔵元  中米満地区
 指定年月日   平成元年(1989)11月3日

< 概 略 >
  樺山どんとは、樺山氏初代資久と伝えられています。樺山資久は、島津本宗家第4代当主忠宗の五男で、三股町樺山の地名を取り、名字を島津から樺山に改称 しました。樺山を統治する上で館を構えたのが樺山城 (現在上米公園)といわれていますが、不明な点が多く残っています。樺山どんのお墓は、都城島津三代北郷久秀・弟忠通のお墓に比べると、五輪塔の内、地輪と水輪が残っているだけで、決して保存状態が良好とはいえません。しかし、三股町樺山のパイオニアとも言うべき重要人物のお墓という点で、三股町にとって貴重な文化財であるといえます。ちなみに、北郷氏(都城島津氏)初代資忠は樺山資久の一つ下の弟です。男子に恵まれなかった資久は、弟資忠の次男音久を養子にもらい家督を継がせました。島津氏の略系図はこちら(PDF文書: 55KB)

  <参考リンク>
  ● 都城島津氏(北郷氏)の系図 : 「都城島津と歴史博物館」のHP

 



  (3)蓼池かくれ念仏洞

蓼池かくれ念仏洞(遠景)

 種  別   史跡
 形  式   洞穴
 所 在 地   大字蓼池字北畑  国道269号線沿い
 指定年月日   平成元年(1989)11月3日

< 概 略 >
蓼池かくれ念仏洞
  かくれ念仏洞の入口(?)付近の写真です。この洞穴(「ガマ」という)の中は、指定の時は高さ90㎝、奥行3m40㎝、横幅1m90㎝となっていますが、元来はもっと広かったと思われます。三股町では蓼池の他に小鷺巣にも念仏洞があったそうです(未確認)。なにぶん秘密に信仰されましたので、未確認の念仏洞はまだまだあるでしょう。

讃誓費
  右写真の記念碑は、同地に建つ讃誓費です。
  昭和8年(1933)に建立されました。讃誓とは、先人の遺徳をたたえ、その志を後世に伝えることを誓ったと解釈できるでしょう。

「かくれ念仏」「仏飯講」などについて簡単にまとめました。
(PDF文書:3.44MB)



 
  <参考リンク>
  ● 都城市平田かくれ念仏洞 : 「都城島津と歴史博物館」のHP

 



  (4)日州梶山番所跡

梶山番所跡(遠景)

 種  別   史跡
 所 在 地   大字長田字諏訪原  梶山地区
 指定年月日   平成2年(1990)4月1日

< 概 略 >
  写真は、番所跡付近を県道33号線沿いに東から西に向け撮影したものです。梶山地区の切寄に当たります。番所跡を標示するものは、写真左に見える白い標柱のみで、寺柱番所跡に比べると寂しい整備状況です。
  日州とは日向の国のことで、梶山は江戸時代を通して都城島津家領でした。薩摩藩は藩境に9ヶ所の陸地番所を設けていましたが、その内2ヶ所が三股町にありました。梶山では、薩摩藩から飫肥藩に通ずる板谷往還の警備が目的であり、人々や物資の流通に対して厳重な取締りが行われました。また、飫肥藩に対する藩境警備を含んでいたことから、三股町が重要な地域であったことを物語っています。また、『三股町史 改訂版』では、間道の警備として、細目、諏訪、野首の3ヶ所に辺路番所が設置してあったとしています。間道とは、裏道や脇道のことで、その通行も取締りの対象でしたので辺路番所が設置されたのです。
  薩摩藩の陸地番所(9ヶ所)について『庄内地理志』巻53を見ますと、

                改御番所
                御領国諸所他国通路改御番所
                   薩州出水野間之原    薩州大口小河内
                   日州加久藤榎田村     日州野尻紙屋村
                   日州高岡去川村       日州都城梶山
                   日州都城寺柱村       日州志布志八郎ケ野
                   日州志布志夏井村    以上九ケ所陸地番所


とあります。また、陸に対し、海側監視もぬかりのないように異国船番所と呼ばれるものを設置していました。
  薩摩藩は、北の陸地側は陸地番所を、東・西・南の海側は異国船番所・津口番所・遠見番所などを設置し、すべての方位の藩境を監視していたことになります。番所の統括は、薩摩藩直轄でしたが、元文元年(1736)8月以降は都城領主に一部委任され、都城島津十九代久龍の時から私領・直轄領を含む全藩境の約2分の1を統括するという重責を担いました。

●梶山街道と寺柱街道

梶山街道    寺柱街道


  左の写真は、都城市に設置してある「梶山街道」(県道33号線)の標柱です。場所は、都城警察署のある交差点を三股町(南進)に向かうと、すぐ二股に道路が分かれていますが、直進するとすぐ右手に標柱(左写真)があり、右斜め道路(南側)に向かうとすぐに「寺柱街道」(右写真)の標柱が見えます。
   梶山街道は、道なりに直進すれば梶山番所跡に至りますが、寺柱街道は直進しても寺柱番所跡には至りません。史跡位置図を参考にしてください。宮村小学校を目指せば簡単にたどり着けます。
  両街道とも梶山や寺柱の方の話では、戦前まで松並木が残っていたそうです。戦中・戦後において燃料として伐採されたのでしょう。現代では旧街道を思い浮かべられそうな場所は残念ながら見当たりません。
 

   <参考リンク>
  ● 仙台藩花山村寒湯番所跡 (宮城県庁HP:文化財:国指定史跡)
    ~番所遺構が残存している全国的に貴重な史跡。

 


 
   (5)日州寺柱番所跡

寺柱番所跡

 種  別   史跡
 所 在 地   大字宮村字尾崎  寺柱地区
 指定年月日   平成2年(1990)4月1日

< 概 略 >
  寺柱番所跡は、宮村小学校から東へ500m程の場所にあります。寺柱番所は都城来住口を東に向かう寺柱街道の終点にあり、梶山番所と同様に飫肥藩への藩境警備(通行人や物資の流通の取り締まり等)が主な任務でした。また、『三股町史 改訂版』の84ページには、間道の警備として、前畑、小鷺巣、高畑の3ヶ所に辺路番所が設置してあったと書かれています。ただし、この3ヶ所の辺路番所については考察の必要があります。例えば、高畑は江戸時代には勝岡郷に含まれていました。現在の行政区画でも大字樺山字高畑であり、大字宮村ではありません。ちなみに、勝岡郷は鹿児島本家の直轄領でした。辺路番所を含め、勝岡郷の考察が今後の課題です。

寺柱番所絵図
『庄内地理志』巻55  寺柱番所絵図
都城市教育委員会所蔵・提供(平成19年6月15日掲載許可)


  この絵図は、都城の百科全書とも言うべき貴重な史料『庄内地理志』の巻55に掲載されているものです。
  『庄内地理志』全113巻(103巻が現存)は、江戸時代に都城島津家が独自に編纂したもので、当時都城島津家領であった寺柱・梶山のことも詳細に書かれています。三股町は史料が少なく、都城島津家史料に頼らざるを得ないのが現状です。『庄内地理志』が都城市により翻刻され、『都城市史 史料編 近世1~5』として刊行されたことは、三股町にとっても歴史解明の財産となっています。寺柱番所絵図は、『史料編 近世2』に収録されており、巻頭口絵及び本文の1263ページに掲載されています。
  絵図について若干の補足を加えますと、右(西)からの道が宮村小学校前から続く道路で、中央の番所の門をくぐり左上へ抜けていく道(大道と書き込んであります)が飫肥(日南市)へと続く道です。この道(大道)は、前掲写真で左端に見える道路に該当します。現在は人家が建っていますので、通り抜けできません。

●牛之峠を越えて飫肥領へ
  飫肥(日南)へ行くには、寺柱番所を通り、牛之峠を越えなければなりませんでした。
  ただ、現代のように気軽にお隣の市町村へ行くという感覚ではありません。自藩から他藩への行き来というのは、外国に行くという表現が合うのかもしれません。それは、庄屋から番所宛に発行された証文(往来手形など)の内容から推察されることで、証文には住所・氏名・年齢・性別・職業・目的・宗派などが記載されているのです。パスポートでもここまでは記載されていません。さらに、所持金の有無や職業によっては所持品の検査も行われ、薩摩藩への入領についても様々な制限が加えられていました。

  現在は番所跡から牛之峠へ抜けることは不可能であると前段で触れました。ただし、別ルートの高畑林道を車で上がれば、途中からではありますが、牛之峠登山は可能です。牛之峠については別項をご参照ください。余談ですが、地元の方の話では、昭和初期まで日南往復に番所跡~牛之峠越えの道を使っていたそうです。驚くべき健脚です。

  寺柱番所が梶山番所と異なる特徴として挙げられるのは、幕府巡見使の通り道であったことでしょう。幕府巡見使は、寛永10年(1633)を初めとして9回通ったようです。幕府巡見使についてはこちら(WORD文書:52.5KB)をご参照ください。
 

  <参考リンク>
  ● 「幕府巡見使御通筋之図
    
~ 都城島津と歴史博物館HP:所蔵史料の紹介

       



    ○三股町指定文化財位置図
            ~Googleマップにリンクさせています。ご参照ください。



 

お問い合わせ先
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電話 0986-52-9311


2.中世城館

  (1)梶山城跡
梶山城跡
梶山城跡を南側上空から撮影
梶山城跡縄張り図
梶山城縄張り図

 

  梶山城跡について簡単な説明資料を作成しました。内容は、上段空撮の写真や縄張り図に関する説明と、都城島津家伝来史料の中から梶山城の古絵図2点、『庄内地理志』に見られる梶山城の姿を紹介しています。
 

梶山城跡説明資料(PDF文書:860KB)




  (2)勝岡城跡
勝岡城跡
勝岡城跡北側入口
勝岡城略図(『三股町史 改訂版』より)

  

  勝岡城跡について簡単な説明資料を作成しました。勝岡城については、絵図や縄張り図はなく、上掲の『三股町史 改訂版』掲載の略図しかありません。研究が進んでいないのが現状です。

勝岡城跡説明資料(PDF文書:641KB)

 



  (3)樺山城跡
樺山城跡遠景(現在上米公園)
樺山城跡
樺山城跡記念碑

 

  樺山城跡について簡単な説明資料を作成しました。樺山城は現在、春に桜まつりでにぎわう上米公園となっています。樺山城が若干の遺構を残している点は下記の説明資料の中で触れています。樺山城は本ホームページの「1.三股町指定文化財」の中の(2)樺山どんの墓とも関連します。

樺山城跡説明資料(PDF:561KB)

  <参考リンク>
  ● 上米公園夜桜まつり( 三股町ホームページ内リンク )


  ちなみに…
  樺山城の初出史料は、「三股町の中世城館及び都城12外城」の中で触れていますが、城館としての「都城」についても若干触れてみます。
  三股町近隣の都城市(旧都城市:高城町・山之口町・山田町)の市町名は城館名と深いかかわりがありますが、残念ながら、三股町に「三股城」あるいは「三俣城」はありません。「三俣城」は高城町や山之口町にありました。中世の三俣院の領域に三股町の北部が含まれていたと考えられていますが、三股町名の「俣→股」の変化については現在調査中です。

  さて、「都城」の初出史料ですが、ある人物の手紙に「ミやこのしやう」と出てくるのが初見とされています。その手紙を書いた人物こそが樺山資久なのです。資久については、三股町指定文化財の「樺山どんの墓」で若干紹介していますが、まだまだ謎の多い人物です。
  手紙の書かれた時期は、中世文書によく見られる年欠の文書ですが、永和2年(1376)に比定されているようです。この頃、資久は小山城(都城市高城町桜木)に在陣中で、今川満範軍と対峙していました。今川満範は、この時九州探題であった今川了俊の息子で、島津氏攻略のために南九州に派遣されてきました。高城に布陣してからの満範は「三俣大将」と呼ばれ、島津氏との対決姿勢を強めていきます。
 

小山城跡 小山城から見える高城
樺山どんこと樺山資久が在陣していた小山城跡。 小山城から見える高城(中央の白い模擬天守:高城郷土資料館)。非常に距離が近く、まさに最前線といった感じです。


<資久の手紙の内容>
  小山城に在陣し今川軍と対峙していた資久に対して、「実は資久は今川方に通じているのではないか」と讒言する者がいたようです。これに対し資久は、都城に籠城していた養子音久に志布志城(現在、国指定史跡)にいる島津氏6代目氏久(奥州家)に弁明してもらうよう依頼を行いました。その弁明依頼と戦況報告が手紙の内容のようです。この手紙の中で「ミやこのしやう」と出てくるのですが、現在使われているような広い地域を含む「都城」ではなく、お城としての「都城」という名称使用が確認されたわけです。さらに、「ミやこのしやう」から考えて「みやこのじょう」と発音していたことも確認できます。三股町に関しても、このような一次史料(その時代に書かれた文書)から歴史解明を進めていく必要があります。
※手紙は「年欠4月25日付明見(樺山資久)書状」として現存するもので、東京大学史料編纂所に所蔵されています。翻刻文は『都城市史 史料編 古代・中世』(P.229)に掲載されています。

  しかし、上掲写真のように最前線で九州探題軍と対峙していながら讒言を受けるとは気の毒という他はないのですが、可能性としては、今川方の謀略(離間の計とでも言いましょうか)が感じられなくもありません。今川方にとって、都城盆地の実力者である樺山一族を味方に付けておきたいというのは、南九州を攻略する上で重要な戦略であったでしょう。また、南北朝時代は、一族内でさえ南朝方・北朝方に分裂して抗争するという事態が全国各地で展開されていましたから、樺山氏にとって本宗家島津氏を離れて北朝に転ずる道がなかったわけではありませんでした。しかし、結局のところ、資久が今川方に付くことはなく、永和2年(1376)の9月には小山城は攻め落とされ、資久は樺山城へと撤退した模様です。
  資久が小山城から樺山城へ撤退したかについては、地理的条件から考えると若干の疑問が残ります。ただ、これ以降の資久の足取りは追えなくなります。

  その後、樺山家の当主として表舞台に登場してくるのは2代目の音久となります。実兄の北郷義久(誼久)とともに都城に籠城して今川軍と対峙し、応永元年(1394)に至って遂に野々三谷城に入城します。樺山氏は、大永元年(1521)まで野々三谷城を拠点とし、都城盆地北部から宮崎平野南部にかけて広大な版図を支配下に置くのでした。
 

〔参考文献:『都城市史 通史編 中世・近世』 平成17年都城市発行〕

 



  (4)北殿城跡
北殿城跡
北殿城跡を北西から撮影
 「北殿城跡・地頭屋敷絵図」(『庄内地理志』巻99)
 都城市教育委員会所蔵・提供(平成19年6月15日掲載許可)

 

  北殿城跡について簡単な説明資料を作成しました。北殿城は、『庄内地理志』巻99で伝わる以上のことは不明な点が多く、山城というより居館に近い規模のものです。地元で伝承されてきた城跡のようで、『庄内地理志』の編者は「北殿=島津久照」という推測を立てています。詳しくは説明資料をご覧ください。
 

北殿城跡説明資料(PDF:470KB)




 三股町の中世城館と「都城十二外城」

  三股町の中世城館は、上記で紹介したとおり4箇所確認されています。もちろん、元和元年(1615)に江戸幕府より出された一国一城令ですべて廃城となっています。さらに、山城ですので、現地に建造物等は一切なく遠目にはただの山にしか見えません。もちろん、現地を踏査すれば山城特有の遺構を確認できるのですが、すべての山城が一部破壊を受けており、整備も進んでいないのが現状です。



  三股町の中世城館や都城12外城について一覧表を作成しました。また、都城盆地の中世城館について簡単な略地図を都城歴史資料館作成の地図を基に加工したものを掲載しております。

三股町の中世城館一覧及び都城十二外城説明資料(PDF:331KB)


  ※「7.都城北諸文化情報誌」-『おてんじょだけ』第2号(PDF:971KB)で中世城館を取り上げています。合わせてご覧ください。
 

     <中世城館参考リンク>
 
     「都城島津と歴史博物館」のホームページより
  都城跡(都城市)   志和池城跡(都城市)
  安永城跡(都城市)   森田御陣跡(都城市)
  月山日和城跡(都城市高城町)   松尾城跡(都城市山之口町)    
  山田城跡(都城市山田町)   薩摩迫(都城市山田町)


        
     「都城市役所 教育委員会 文化財課」ホームページより
 
  都城跡(都城市)   志和池城跡(都城市)
  安永城跡(都城市)   森田御陣跡(都城市)
  野々美谷城跡(都城市)   梅北城跡(都城市)
  六ヶ城跡(都城市)   山田城跡(都城市山田町)
  月山日和城跡(都城市高城町)  
 
 
     ○宮崎県内国指定史跡の中世城館(3件)
        都於郡城跡(西都市役所HP:文化財:史跡→14)
        穆佐城跡(宮崎市役所HP:文化財:国指定史跡→12)
        佐土原城跡(宮崎市役所HP:文化財:国指定史跡→10)
  



 
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電話 0986-52-9311


3.牛之峠関連

  (1)牛之峠論所跡

牛之峠論所跡の石柱
牛之峠論所跡の石柱

<概略>
牛之峠論所跡の石柱は、「従是東飫肥領(これよりひがしおびりょう)」と刻字されています。論所とは境界争いがあった場所を指し、論地ともいいます。
薩摩藩と飫肥藩による境界争いは、寛永4年(1627)から延宝3年(1674)まで48年続き、江戸評定所の裁定により島津方の敗訴で決着がつきました。



  (2)一等三角点・天測点
 

牛之峠一等三角点付近
牛之峠一等三角点付近(眺望は得られません)

牛之峠一等三角点
牛之峠一等三角点

天測点
天測点
 

<天測点について>
天測点は、天文測量のために設置され、天測点自体は測量機器の重量に耐えられるようにコンクリートで作られたそうです。
すべての天測点の台上部には指標鋲があり、側面には「第何号 天測点 地理調査所」と書かれた銘板が取り付けられています。
昭和26年から33年までの5年間で全国48箇所に天測点は設置され、牛之峠のものは昭和33年(1958)に設置されました。

 



  (3)中之峠御茶屋跡
 

中之峠御茶屋普請絵図
中之峠御茶屋普請絵図(『庄内地理志』巻55所収)
都城市教育委員会所蔵・提供
中之峠四等三角点がある付近と思われます。
 


 
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4.田の神さあ

(1)田の神さあについて

  「田の神さあ」(タノカンサー)は、農耕の神として農民の間で信仰を集めてきました。日本では古くから米作り農業を基盤として生活を営んできましたので、全国的に「田の神信仰」が見られます。しかし、田の神の石像については、薩摩藩内(宮崎県の諸県地方を含む)のみの文化であると言われています。また、享保年間に作られた銘文のある田の神像には、武士身分の名前が確認されることから、薩摩藩主導のもとに田の神石像が作られたのではないかという指摘もあります。

1.「田の神さあ」への祈り
  農民は、五穀豊穣を祈り、その種まきの神として田の畦に神像を据えたようです。時代が経つにつれ、農民の神として大衆化し、現在見られるような親しみやすい姿になったようです。「タノカンサー」という呼び方からも親しみが感じられます。

2.田の神石像の分布
  現存する最古の田の神石像は、鹿児島県薩摩郡鶴田町紫尾のもので、宝永2年(1705)の銘を持つ仏像型の石像です。ちなみに、宮崎県内で最古のものは享保5年(1720)銘を持つ小林市真方新田場の神官型の田の神石像です。
  これらのことから分かるのは、仏像型の田の神石像は薩摩半島の北側から発生し、その分布を広げたと言え、神官型の田の神石像は諸県地方から発生しその分布を広げたということです。後には混在していきます。実際に三股町の田の神石像は神像型(神官型)の系統が多数見られます。

3.三股町の「田の神さあ」
  現在把握されている三股町の田の神石像は18体ですが、発見されていないものもあるでしょう。「(2)三股町の田の神さあ」で作成した資料は17体分です。残り1体は、『みまた歴史散歩』(桑畑初也著作・発行)の16ページに掲載されていますが、確認できませんでした。

4.「オットイタノカンサー」について
  「オットイタノカンサー」とは盗んだ田の神様という意味で、なぜ盗むのか(実際は借りる)については、理由は様々のようです。
  「田の神」石像が作られ始めた経緯については既に述べましたが、新しく水田が開発された時や、新しくできた村で田の神のない村では田の神のオットイを計画するそうです。これは、村の者全体の意志として決定され、後に返しに行く時に持参する謝礼の方法等まで、詳しく討議し、決定された上で若い者がオットイに派遣されるわけです。それが分かっているから盗まれた方も詮索をしないし(置手紙等がある)、盗んだ方も約束を守る、そんな風習があったようです。また、他の地区の村人は皆仲が良く、よく働いて作物もよくできる、そういった村があると聞いた時に、それはその村の「田の神さあ」が良いからだということで、そこの「田の神さあ」にあやかるために「オットイ」を計画するようです。
  しかし、今述べたようなルールは古い時代はよく守られたようですが、時代が進むにつれてそのルールは守られなくなり、帰ってこない田の神になり、ついにはオットラレないようにセメント付けになったものも多いようです。

5.田の神舞(タノカンメ、タンカンメ)について
  南九州の各地で見られ、神楽の中でも最も親しまれる舞の一つでした。現在では、なかなか見る機会も少なくなりました。
  春と秋の年2回、田の神祭りが行われ、その日を田の神講の日としてお祭りを行ったようです。その日は、田の神に化粧をし、当番の家に集って田の神祭りを行い、その中で、田の神舞が踊られたそうです。

6.田の神の型・変遷について
  石像の型の呼称は、研究者によって違っていたり、宮崎と鹿児島で違っていたりと、統一されていないのが現状のようです。

  ○仏像型系統(北薩地方から発生)の変遷
        仏像型(地蔵型)→僧型→旅僧型
  ○神像型系統(小林市、高崎町から発生)の変遷
        神像型(神官型)→神職型→神舞神職型→田の神舞型(農民型)

  系統の変遷を見ますと、「仏様から人間へ」「神様から人間へ」と徐々に人の姿に近づき、親しみのある庶民的な神仏へと変遷を遂げたと言えます。その他に、道祖神的並立型、女人像型、陽石型、自然石等があるようです。
 
■  参考文献(PDF文書:38KB)
    <参考リンク>

  崎県季刊誌 『 Jaja 』 vol.13(2007年夏号)「特集:田の神さあをめぐる」
~宮崎県庁ホームページ : 秘書広報課より 

 



  (2)三股町の田の神さあ

      位置図(PDF:1.67MB)

      データ:上掲位置図内の番号と下記データ番号の田の神が一致します。
番号 所在地 ファイルサイズ 番号 所在地 ファイルサイズ
長原  150KB 城下  146KB
水戸口  395KB 岩下  109KB
崎田  119KB 塚原  384KB
迫間  126KB 大工原  543KB
野中  99KB 原田  108KB
松田  91KB 上小石  544KB
村ノ前1  126KB 畑田  101KB
村ノ前2  101KB 岩切  未確認
徳枡  455KB 坊ケ野  492KB

                                                                   ※すべてPDFファイルです

      代表的なもの(画像をクリックすると拡大します)

長原の田の神 野中の田の神
長原の田の神(長田地区) 野中の田の神(蓼池地区)
上小石(堂領池)の田の神 徳枡の田の神
上小石の田の神(堂領池) 徳枡の田の神(勝岡地区)
原田の田の神 天神(塚原)の田の神
原田の田の神(上米地区) 天神の田の神(塚原)

  



お問い合わせ先
教育課 生涯学習係
電話 0986-52-9311


5.石橋
 
  (1)梶山橋


梶山橋(めがね橋)1
沖水川上流(東側)から
 

梶山橋(めがね橋)2
沖水川下流(西側)から
 

<概略>
梶山橋は、梶山と中野地区を結ぶ石橋として昭和16年(1941)11月に建設されました。



  (2)轟木橋

轟木橋(太鼓橋)
 

<概略>
轟木橋は一連アーチですので別名太鼓橋とも言います。昭和18年(1943)に建設されました。

 



  ○長田峡

長田峡1
 

長田峡2
 

<概略>
長田峡は、大八重乱レ淵から梶山の矢ケ淵まで10kmにも及ぶ長い峡谷です。上写真の滝のように見える場所は、人工のものですが、景観として美しく夏場は涼を得るには絶好の場所です。

  



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6.民俗芸能
 
  ○
三股町の民俗芸能について

      概略版(PDF:157KB)
      ● 早馬まつり(三股町HP内リンク)
      『広報みまた』2010年11月号のP.2~3P.4~5(三股町HP内リンク)

    <参考リンク> 
        ● ふるさと再発見(2) みやざきのうたと芸能101
                   ~ 宮崎県庁HP : 教育・文化 : 文化
 


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7.都城北諸文化情報誌 『おてんじょだけ』

  この情報誌は、都城市・三股町・山之口町・高城町・山田町・高崎町の1市5町の社会教育・文化財担当合同で作成したものです。主に、小中学校に配布し、歴史教材として活用していただくことを目的としました。平成18年の1市4町の合併により、都北社会教育協会(その中の文化振興部会)が解散したことにより、『おてんじょだけ』は廃刊となりました。

  ただ、広域な文化情報誌ということもあり、このまま埋もれさせるのは惜しいと考え、電子化し公開した次第です。残念ながら、創刊号から第3号までは印刷物をスキャナーしたものですので、見えにくい部分や汚れが目立ちます。ご容赦ください。
 
号  数 内  容 ファイルサイズ
創刊号 管内情報 PDF:652KB
第2号 中世城館 PDF:971KB
第3号 田の神 PDF:954KB
第4号 郷土芸能 PDF:674KB
第5号 代表的な文化財 PDF:657KB
第6号 戦争関連 PDF:1,913KB

  


 

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8.埋蔵文化財

  三股町では、発掘調査件数が少ないことから、縄文・弥生時代などの歴史解明は不十分な点が過分にあります。

  そこで、ここでは宮崎大学附属図書館の「宮崎県遺跡資料リポジトリシステム」を紹介します。ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、宮崎県内の埋蔵文化財報告書をPDF文書で閲覧できるサイトです。その中に、三股町関連の報告書も含まれています。遺跡リポジトリシステムのリンクをクリックしていただければ、システムに参加している報告書については宮崎県以外のものも閲覧できます。

      < リンク先 >
        宮崎県遺跡資料リポジトリシステム(宮崎大学附属図書館HP)

 



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